見るなー!

 自分の行動の背後にある思惑、意図、打算、欲望、そういったものを見透かされると、何で衝撃を受けてしまうんでしょうね。どうしようもなく恥ずかしくなってしまって、消え入りたくなります。私がこの日記で、くどいくらいに自分の内面を書いてるのは、見透かされるのが怖いから、それに対する予防線として、最初から自分で開陳してる、という部分があります。自虐的なことを言うのもその一環。

 何なのかなー。なんで看破されると辛くなるんでしょうねえ。相手の手のひらの内、向こうが上でこっちが下、みたいに感じられて屈辱的だからなのかなあ。わからん。

 他人の内面を見透かす(見透かしたつもり)になるのはいいんだけど、それをあんまりはっきり言うのって、何かちょっと下品じゃなくって? と思うのは、私が見透かされたくないからその反動かしらー。

 いつかも似たような事を書いた覚えが、と思ってたら、三年ちょっと前に、

 中二病高二病となんかそのへんのメタゲームっぽい対立が終わらないのは、自分がされたら嫌なことを他人にしたがる年頃だからだと思いました。
 何をされるのが嫌かって見透かしたようなことを言われるのが嫌なので、『お前中二病(笑)』とか言われると頭に血が上ります。でもその一方で他人を見透かしたことは言いたいので、『高二病乙』と言い返したりまた別の人には『中二病(笑)』と言ったりするのかなあとか。
 普段は『他人の嫌がることはしない』を守っているようでも、『指摘』とか『議論』とかのオブラートに包まれてると、自分でも気付かず衝動全開になってしまう恐怖。


「あのさあ……きみらの年代にとって、そうやって、人を見透かしたようなことをいうのが一番楽しいってのはよく分かるんだけど、さっきからまるで的外れだよ」
                             『ヒトクイマジカル』より

って書いてました。

要は勇気がないんです

 他人にかける声や気遣いや、もっと言えばほとんどのアクションというものは、極論すれば(出た、理屈屋中学生の使う必殺技何でも極論)、みんなおせっかいのような気がします。

 しかし複雑なことに、おせっかいにもされて気持ち良いおせっかいと、不快なおせっかいがありまして。ほぼ同じような事を同じ調子で言ってても、発した人によってありがたかったい欝陶しかったり、というのはよくある話です。また、当然、受ける人によっても、同じ人からの同じようなおせっかいを是としたり非としたりがあります。

 他人を助けるのは良いことだ、という、単純な倫理に照らすと、喜ばれるおせっかいはできるだけやっていきたいところです。しかし、どんなおせっかいなら笑って受けてもらえるのか、よく分かりません。というか私の場合もっとネガティブに、私のおせっかい、ひいては他人へのあらゆるアクションは、うざったがれるのではないかというのが不安で仕方ありません(裏返せば、私が他人の「おせっかい」をうざったく思うことが多くて、その反映なの……かも)。

 だから、例えばマンションの管理人さんが転んで怪我をしたらしいと噂で聞いても、管理人さんに会った時に「怪我をされたとお聴きしましたけど、大丈夫ですか?」の一言が脳裏に浮かびつつも結局言えなかったりする毎日なわけです。怠惰なせいもあるけど。

 まあ、簡単にまとめれば、他人に働きかける時は勇気が必要だっつーことなんですが。私は勇気がなさすぎる。他人におせっかいを焼く勇気を持ってる人を尊敬するよ! ただしそいつが私にとってウザい場合は例外な!

異性になりたい気がしないでもないのだけれど

 男の過半数が一度は抱いたことのある願望だと思うんですけど、たまに女の子(当然平均以上の容貌の)になりたいって思うんですよね。でもよく考えると、女の子になってしたいことがあるわけではない。お洒落とかは……まあちょっと楽しそうかなと思わないでもないですけど、お洒落するためのセンスを磨く努力とかはさらさらする気ねーし。女の子になって女の子とイチャイチャしたいとはちょっと思う(それは何か変な性癖だ)。

 思うに、私の女の子になりたいってのは、積極的な志向ではなく、男であることから逃げたいからっていう消極的な理由によるものなんじゃないでしょうかね。女の子なら、私の弱気さや優柔不断さも許されるんじゃないか、みたいな(その背後には、私が相手が女だとほぼ何でも好意を持ってしまう、という色ボケ気味な性質を持っているという事実がある)。許されねえっつの。しかもだらしなさみたいなのに対しては、一般的には女子の方が風当たり強いっつの。

 今の自分が色んなことがうまくできないからって、逃走先を女性性になるという妄想にするって、二十歳をとっくに超えた男としてどうなのよ。

お前真面目なんじゃなくて要領悪いだけだろ

駄目な俺の補足的な。読んでなくてもいいですけど。


 自分の駄目アピールをしてそれが誠実さの表れだと思ってる人たちは、っていうか私は、要領の悪さを誠実さや真面目さだと勘違いしてる気がします。生きるのに不器用な俺と、器用なあいつらでは、俺の方が一生懸命だ、みたいな。当たり前のことすら頑張らないとこなせない人間と、より有益なことへ努力を分配できる人間、どっちの方が人に必要とされるかなんて比べるまでもないのに。

 大体、誠実さを売りにしてるということは、世の中の他の大多数は誠実じゃあないと思ってるってことですよね。どうなのかなあ。日陰を歩いて生きてきたから、日向の奴らはズルをしてる、と感じてしまうんだと思うんですが、果たしてその認識は正しいのか。実際には日向の人間も日向にいるなりの努力をしてるんでしょうけど、その努力が日陰からはよく見えない。逆光がまぶしくて。

 でも、何ら自分に美点がなくて世の中の奴らは自分と同じかそれ以上に努力していてそんな自分を受け入れてくれる人なんかいるわけなくて、それでも、どこかしら自己肯定しなきゃ生きてけないしなあ。その無理な自己肯定を否定することは、私はできないなあ。

ダメな俺

ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群
http://anond.hatelabo.jp/20080825123643

「自分は良い所がない、人間として不良品である」という認識が基点。

 人間関係を一種の営業として捉えると、不良品を誤魔化して売りつけて後でクレームが来たら困る。だから、最初から不良品だという説明をしておいてクレームを回避しようとする。

 その一方で、不良品では買い手がつかないだろう、という自覚もある。何か美点を身につけようと思うものの、そうそう簡単に美点が身につくわけがない。努力が必要な美点を身につける根気や甲斐性もない。でも、世の中は、今、この場で、何か長所を述べろと迫ってくる。そこで、だめな自分をあからさまに伝えるという作戦を取り始める。というのも、「隠し事はせず正直である」ということは、誠実であり美点である、というような認識があるから。この思考では、「ありのままである」ということは、欠点ではなく、むしろ唯一の美点のつもりになっている。それは誠実さは誠実さでも自分勝手な誠実さなんだろうけれど、精神が未成熟なままなので、ワシントンと桜の枝の説話から抜け出せていないままでいる。

 また、隠し事をしないというのは、実はすごく楽なことである。ノーガード戦法ってのは馬鹿でもできる。心の中を全部吐き出して、駄目元で裁きを待つってのは、とても気楽だ。

 そんなわけで、ありのままの自分を馬鹿正直にさらそうとしてしまう。本来の目的の自分の売り込みからは目をそらして(或いは本気で気づかなくて)、売り込む過程の楽さに左右された選択をしてしまう。

 私の場合、就活でこれやってました。そりゃどこからも声かからねえよ。でも、本気で何も売りがないのに、誠実さと信じていたことすらただの自己満足だと喝破されて、いよいよ自分に売りがなくなってきますね。それでも就活の時期は迫ってくるわけで、一体どうすりゃいいんだか。←と、「どうしようもない」と思考停止していろいろ考えるのを面倒臭がるの図。

作品を分析的に見れない

 先週、NHKBSの週刊ブックレビューっていう番組を初めて見たんです。あの番組面白いですね。作家さんや著名人が三人来てお勧めの本を紹介したり、新刊を引っさげてゲストに来た作家さんにインタビューしたりする番組です。詳しくはwikipediaでも見てください。

 先週の特集は、ミステリ作家の道尾秀介という作家さんだったんですね。初めて知った作家さんでした。

 その道尾さんが、「自分で自分の一番好きな小説を書いているんです。だから、もし僕と完全に好みが一致する人がいたら、僕の小説はその人にとって一番面白い本になると思います」と言ってて、すげえなと思いました。

 既存の作品に不満があるから、自分自身が楽しめるような小説を書くことにしたんです、っていう作家さんは結構いますけど、実際にそう喋っているのを見るのはインパクトがありました。

 だって凄くないですか? 自分で自分の気持ち良くなれるポイントを完全に掴んでて、しかもそれを紙上に完璧に反映させることができて、なおかつ作品という一定のまとまりのあるものに仕上げるんですよ。何だそれー。

 翻って私を考えるに、作品は作れませんね。思うことを紙上に再現することもできませんね。っていうかそもそも、自分がどうなれば気持ち良くなれるかが分かりません。本を読んだり映画を見たり絵を見たりして楽しくなれることはもちろんありますけど、何でか良く分からないけど楽しい、という受け取り方です。

 うーん。私は美意識が未成熟なのか? それ言ったら何もかも未成熟っすけどー。

 そういえば、文章や絵やその他色んなことがうまくなりたいなら、好きな人の作品がなぜ良いと思うのか分析しろ、という教えを何回も目にしてきました。でも未だかつてやったことがない。一文、二文レベルで注目することは極々たまーにありますけど、「うわー、このフレーズすげー、どっから出てきたんだー、俺には真似できねぇー」で終わってしまいます。

 なぜか、分析的に物事を見るということに、どうしても抵抗があります。色々な観点から見たり、その仕草の意味を考えるというのは、すごく疲れてしまうし、やっててわけがわからなくなってしまいそう。どこまで細かく考えればいいのかも、きりがなくなりそうで怖いです。頭を使いたくないんだなあ私……。いやそんな頭を使わないような、たとえばこの画家さんは目をこういう風に書いてるから真似してみようとか、その程度の分析・研究すらしたくありません。本当にどうしてか分からないんですが。

 他の人の優れた所に着目するということは、現時点の自分はできていないということも目の当たりにすることになります。そこで私の脆くて高いプライドに傷がつくのが怖いのかもしれません。自分はできないということは変わらず、結果的にはそっちの方がみじめだというのに、目先のちょっとの苦労と屈辱すら嫌がってしまう。

 そんなこと言ってやろうとしないから、自分の好みも分析できていないし、技術も進歩しないんですけど、だって嫌なんだもん! 必要に駆られりゃやるのかなー。必要に駆られてもやらないままでどんどん落ちこぼれていく、というのが今までの人生だから期待できないなー。自己改革が必要だなー。する気ないけどー。やっぱ必要に駆られてもやらないんじゃーん。もう死んだ方が良いよ。

失敗経験で動けなくなるタイプ

 私は、何かを失敗すると、「次は失敗しないようがんばろう」ではなく「もうこういうことはやらないようにしよう」という思考になりがちです。「こういうこと」ってのは、失敗自体じゃなく、失敗した活動全体を指します。そして、あれやって失敗してこれやって迷惑かけてそれやって怒られて、としている内に、「私なんかが活動的になるから駄目なんだ」と思うようになり、何をするのも恐ろしくなってしまいます。

 それでは本当に何もできなくなってしまうのですから、「次は失敗しないように〜」タイプに思考をシフトさせなきゃ生きてけないんですけど、そんなこと言ったってこれが私の人格だしなあ。人格を否定するのは良くないってはてな界隈の偉い人が言ってた! いや自分で自分の人格を改善しようとするのは良いのか。でももう自分を変革する努力をすることすら怖い。勇気は有限な精神資源でありもう枯渇してる。いや駄目だ勇気を振り絞れ。しかし勇気だけではまた失敗して迷惑かけて怒られるだけになるので、そうならないよう注意深くならなけりゃいけないんですが、それができなくて結局失敗体験だけが増えやがる。