弟と姉の1の問答――誰にでも優しい人

「おはよう姉さん」
「おはよう、愛しの弟」
「休日に朝早く起こしたこの会話のセッティングは何?」
上遠野浩平さんの『私と悪魔の100の問答』、にインスパイアされたぴよらっとさんの『ぼくと先輩の100の問答』(http://d.hatena.ne.jp/piyorat/)、のパクリよ。可愛い弟と二人で何かについて語り合おうと思って」
「簡潔でぶっちゃけた説明ありがとう。……じゃあ、何か議題が?」
「ええ。早速だけど、あなたは、『誰にでも優しい人は、誰にも優しくない人と一緒だ』という言葉をどう思う?」
「……あんまり、納得できないな。だって、周り中にパンをわけてあげる人と、誰にもパンをあげない人が一緒って言うんだろ? 周りの人の腹具合が全然違うじゃないか」
「本当にそうかしら?」
「姉さんは別の意見なの?」
「人と人との間に差を作らない、という意味でのみ、一緒だという表現を使っているだけじゃない?」
「だとしたら、随分乱暴で、無思慮だよ。そんなことを言いたいためだけに、優しい人を優しくない人にまで叩き落とすなんて、優しさの価値を少しも理解できてないんだ」
「そうかもね。じゃあ、少し真面目に話しましょう。一つ、丁度いい物語があるから教えてあげるわ。よしながふみさんの『愛すべき娘たち』というコミックに収録されている話。記憶を頼りに話すから、細部は違うと思うのだけれど――」
「姉さんも漫画なんて読むんだ」
「好きな漫画家は月野定規よ。さておき、『愛すべき娘たち』のその話は、誰にでも分け隔てなく接するよう育てられた女性のお話。彼女は教えを実践して生きてきて、誰にでも優しいと好かれていたわ。そんな彼女がある時お見合いをして、素敵で誠実な男性と知り合うの。男性の方も彼女を好いて、求婚。けれど彼女はそれを断ってしまう。その理由、あなた分かる?」
「……まあ、何となく、想像はつくね」
「そうね、きっと当たってるわ。彼女は、誰かを愛するってことは、人を分け隔てするっていうことでしょう、だからよ、と言ったわ。そういう、お話。どう思う? 誰にでも優しい彼女は、誰も愛さない。それは誰にも優しくないのと一緒じゃあない?」
「……それは」
「それは?」
「……いや、やっぱり、一緒じゃないと思うよ」
「お見合い相手の男性は拒絶されて傷ついたわ。彼女も、誰かを本当に受け入れることがない。それでも?」
「だって、彼女に優しくされて助けられた人は、現に沢山いるじゃないか。彼女は見方によっては寂しい人生かもしれないし、その男の人みたいに彼女の特別になりたがる人は拒絶されるだろうけど、でも、そのごく少数にだけ焦点を絞って、他の大多数の人のことを考えないのは、おかしい。拒絶されるって言っても、やっぱりその男の人は、彼女にできる限り優しくはされるのだろうし……」
「なるほど。それでは、もう一つ。もうちょっと厳密な話をしましょう」
「……どうぞ」
「嫌な顔しないでよ。私はあなたとお話するのがこんなに楽しいのに。さて、あなたはさっき、周り中にパンを与える人、って言ったわね? でも、無限のパンなんて存在しないわ。人の持つリソースには限りがある」
「いや、それは喩えだからで、使っても減らない、例えば優しい言葉とか」
「それでも有限のリソースを消費してるのよ」
「言葉が減る?」
「第一に、時間が減るのよ。一日の時間は決まっている。誰か一人に、数人に、数十人に、優しく話しかけている時は、他の数百人に、数千人に、数万人に優しくできない。これはもう、どうしようもないことよ。でしょ?」
「う、ん」
「だから、無限のパンを持つ人はいない。ここまではOKかしら」
「……OK」
「それでは、無限のパンを持たないけれどパンを配りたい人はどうするのかしら? それはね、選ぶしかないのよ。配る相手を。近くにいる人とか、飢えている人とか、頼ってきた人とか、そういう基準で、パンを渡す相手を選ぶ」
「当たり前だよ」
「そう、当たり前。でも、限られたリソースを、限られた人間に配分したら、もう誰にでも優しい人ではないわ。パン屑の一欠片でも他人に渡した時点で、その人は誰にでも優しい人から、誰かにだけ優しい人になってしまう」
「そ、れは、意味としては、そうかもしれない、けど」
「だから、誰にでも優しい人と誰にも優しくない人を比較する比喩として、パンを与える人と与えない人を比較するのは、間違っている。誰にでも優しい人であるためには、誰にもパンを与えてはいけなくて、つまり誰にも優しくない人と同じである。そういうこと。反論は?」
「…………」
「何でもいいわよ。どんな些細なことでも。重箱の隅でも揚げ足でも」
「……ないよ」
「それじゃ、納得した?」
「……でも」
「なあに?」
「そういう、厳密な意味で、誰にでも優しい人なんて、実在するわけないよ。誰にも優しくない人だって、いない」
「そうね。それで?」
「だから、いるのは、出来るだけ色んな人に優しくする人と、出来るだけ人に優しくしない人だけだ。それなら、持ってるパンを色んな人に分ける人と、渡そうとしない人って比喩が、通用する」
「それは反則だわ。問題の対象が、誰にでも優しい人と誰にも優しくない人なんだから。そこから外れちゃ、お話にならない」
「それが何だよ、姉さん」
「え?」
「それが何だ、って言ったんだ。そりゃさ、言葉だか概念だか思考の上では、その二つは一緒にならざるをえないかもしれない。けど、だからって、そんなこと言っちゃ駄目だよ!」
「駄目って、どういうことかしら?」
「だって、誰にでも優しい人と誰にも優しくない人が一緒なんて聞いたら、出来るだけ優しくしたいと思ってる人が、自分は優しくないのと一緒だから止めようなんて思っちゃうだろ! 世界から優しさが減っちゃうだろ! そんなの駄目だよ! だから僕はそんな話、認めない!」
「あらあら。……それじゃ、あなたは、一緒だって言葉に対してどうするの?」
「……最初に僕が言った通り、パンをわける人の方がわけない人より良いって話をするよ」
「それは破られた比喩よ」
「姉さんみたいに意地悪く指摘する人がいなければ、聞いた人を納得させられるかもしれないだろ。優しくしようって思ってもらえるかもしれないだろ」
「その納得が、騙されたような物でも?」
「それで世界が少しだけ良くなるなら、僕は人を騙すよ。自信を持って騙してやる。胸を張って騙してやる」
「まあ、驚いた。自分の弟が詭弁家になろうとしてたなんて、私はちっとも気付かなかったわ」
「また説教でもするの? それとも議論の続きをする?」
「いいえ、どっちもしないわ。何でそんなことをする必要があるの? そんな怖い目で見ないで」
「だって」
「私はね、そんなだから、あなたのことを愛しの弟と呼ぶのよ。ほら、こっちにきて。抱き締めさせてちょうだい」
「…………」
「それじゃあ、朝ご飯にしましょうか」
「……うん」