自殺は自分に責任を持てない故の行動

 人間、自分の人生に対して責任を持てるのは自分自身だけだと思うんですよ。人生には小さいこと大きいこと色々なイベントがあって、それら全てにいちいち誰かが世話を焼くなんてのは現実的ではありません。

 そんで、自殺しようとする人って、自分の人生に責任を持てなくなった人だと思うんですよね。何か色々個別に悩みとかあるんでしょうけど、大雑把に言ったら人生の責任放棄なんだと思うんですよ。或いは死ぬこと以外の責任の取り方が分からなくなったか(それが責任を取ることになるか、は議論の余地がありますが、当人はそう思い込む場合がある)。

 でも、一般的には自殺って止められるじゃないですか。親からもらったたった一つの命、大切にしましょうとか。死んだら終わりだぞとか(本人は終わらせたいんでしょうが。ところで終わるって何が?)。「人生は最後の武器だ、無駄弾を撃つんじゃない(by筋肉少女帯)」とか。優しい言葉をかけて思いとどまらせること、それ自体は良いんですよ。ただ問題は、自殺志願者が投げ出そうとした、人生の責任は誰が負うんだっていう。例えば借金が返せなくて自殺しようとした人が生き延びて、でも本人やっぱり返せる気がしないのにその借金はどうするんだ、みたいな。

 一番良いのは、自殺志願者が完全に改心して、自分の人生の責任を自分で取っていこう、と決意することですよね。でもそれって、凄く難しいことのように感じられます。責任感も、実際的に責任を取っていく(借金分稼ぐとか、人生をこなしていくような)能力も、ちょっと死にかけたくらいで身に着くもんじゃないでしょう。自殺を考える人、考えなきゃならない状況に追い込まれる人って、何かしら、それも根本的な部分に弱さを抱えてると思うので、単純にちょっと生き残ったからって自分の人生に責任を持てるのか疑問です。

 もしかしてここで、家族が支えに、みたいな話になってくるのか。当人が責任を持てるようになるまでサポートか。うーわ、何かなー。家族かー。でもどこまでできんのかなー。

 別に、死にたい奴はバンバン死なせろとか言いたいわけじゃありません。一時の気の迷いの自殺願望なら、絶対に止めるべきだと思いますし。むしろ自殺願望なんて大抵一時の気の迷いなのかもしれません。鬱とかの心の病はどうなのかなー、良く分からないから保留。

 取りあえず私は、自分のこれまでとこれからの人生に責任を取れる気がさっぱりしません。今の所、責任取れ取れの声があまり聞こえない場所にこもれてるんですぐに死ぬつもりはありませんが、将来的にはどうにもなあ。こいつ(私自身)と付き合ってく自信ないぞ。

自分を売り込めない

 プラス方向での自己アピールが苦手です。自分の美点や長所を紹介し売り込むことに抵抗があります。就活でもそうでしたし、普段の対人関係でも自分を駄目な奴だということを強調しがちです。それらに限らず、どんな局面でも、自信なさげに、いかにも弱者でございといったように振舞うことが癖になっています。

 自信があるように、能力があるように、強者らしく振舞うと、その分期待されます(上手くいけばですが)。期待されれば何かを任せられ、責任が生じます。それが嫌なのです。たとえ、その期待にちゃんと応えれば、負った責任にふさわしく、大抵は支払う労力以上の対価が与えられるとしても。

 義務と権利の比喩関係を持ち出すなら、義務を免れるためなら権利を得なくても良い、ということです。吝嗇と強欲の比喩を当てはめるなら、生きること全般に関して吝嗇なのでしょう――何かを得たいということより、とにかく労力を支払うことが嫌で嫌で仕方ないわけです。

 しかし、困ったことに人は、肉体的にも精神的にも、一人だけで完結して生きていけるようにはできていません。

 肉体的には、肉体が自然と出すものがある分、何かしら入れなきゃいけません。『人間失格』には「人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。」なんて一節がありますが、そんなことを言ってもやっぱり食べなければ死ぬし、その為には社会で労力を支払わなければいけないのです。そして社会というのは一般的に、将来的にどんどん支払う労力が増えていく傾向があると思います(その分リターンも増えていくのですが)。

 また、精神的には、達観というのがなかなかできません。労力を支払うくらいなら、たとえばお金や恋人やその他の得る物がない方を志向する、とは言っても、それらに対する欲が完全にないわけではないのですから。法界悋気ってのは、実に始末に困ります。ねたみ、そねみ、憎み、翻って落ち込み、悲しみ、絶望。時折それは認識を歪ませて、労力を支払わないことを優先させたのは自分なのに、そのことを忘れさせ、努力しているのに望むものが獲得できない、と思い込ませすらします。

 結果として、苦痛と共に最低限の自己アピールをして何とか生きていくか、それすらできずに社会からドロップアウトするか。そしてどちらの場合も、他のまともな人間たちへの羨みと自分に対する絶望がついて回ります。

 まったく、私のような人間は面倒くさいです。不健康です。屈折してます。非合理的です。が、一体どうすればいいのか分かりません。人格を改造する? それとも自分を受け入れて付き合っていく? どっちもなんか面倒くせえなあ。そして今日も、愚痴るだけ愚痴って、何も変えようとしないのでした。

自分のことすら理解できない

 多分、私は自分にしか興味がないわけで。そんな私の書いてることになんらかの意味があるとするなら、誰もが考えたり感じたりしているけれど、なかなか言葉にできない感覚を文章化する、とか。或いは、ある一人の人間の心理サンプルとして、とか。そんな所じゃないかと思うんです。

 いずれにせよ、自分の心をよく観察して分析して書かないといけません。自分にしか興味がないなら、自分のことくらいはちゃんと見て掘り下げろ、というわけです。

 ……全然できてないよなあー。以前は、もう少し自分について考えられていたような気がするんですが。今はもう、自分についてすら思考を続けることができませんし。自分のことなのに自身がもてず、「私はこういう人間のようだ」とか言うことができませんし。最初に書いた「私は自分にしか興味がない」ということすら、それが正しいのかどうか自信がありません。私には何も分かりません。

埋没することが怖すぎて

何やっても周囲から浮くことに悩んでいるわけですけど、実際には浮きたいと望んでいるのかもしれませんね。
歪んだ自己顕示欲と、脆い癖に肥大化した自意識と、コンプレックスと、その他諸々が絡み合った影響で。
悪目立ちでも無視されるよりマシ、みたいな。
あるいは、小さな頃からかわれまくったわけですが、そのトラウマを何とか飲み込むために、「このからかわれ方・変な注目のされ方は、私が望んでやってることなんだ、私はパフォーマーなんだ」と思い込むようになって、劇場型性格(でいいのかな)になってしまってるとか。

相変わらず何もできない

やっぱさ−、ノースキルだと何もできねーんだよね。
いや、できねーからノースキルっていうんだけどさー。
そんで何もできないと、何も価値を認めてもらえないし、それはつまり存在を無視されてるも同然ってことなんだよね。
あー。
透明な存在になりたいとか思ったことはあるけど、透明な存在でしかあれないっつーのは虚しいもんだな。

調子に乗ると恥をかくけど、調子に乗らなきゃ何もしない

 誉められなれていないので、ちょっとおだてられるとすぐ調子に乗ります。普段極端に停滞しているので、多少調子に乗ったくらいが、まあ普通の人と同じくらい活力がある状態です。
 けれど、その活性状態は長く続きません。ふとした拍子に、スッと冷めてしまいます。そして一旦冷めると、活力があった頃に時にやったことが、何でもかんでもみっともなかったような、非常に恥ずかしいことだったような、そんな風に感じられて、頭を抱えて叫びたくなります。何もかも、まるで深夜に書いたラブレターみたいに感じられるのです。
 そんなことを繰り返す内に、「自分は活動的になるとあとで後悔する」という、ちょっと間違った条件付けがなされてしまいます。言い換えれば、「頑張ると恥をかく」です。
 そんな歪んだ理念の元に生活していては、どんどん駄目人間になっていってしまいます。それは分かってはいるんです。分かってはいるんですけど、ねえ。
 ずっと調子に乗り続けられるか、調子に乗っても後になって思い返して恥ずかしくなくなればいいんでしょうけど、一体どうすりゃ良いんだか。

そしてボクは口をつぐむ

 上手いことの一つも言えない。いや、上手いことどころか何も言えない。言うのが怖い。

 世の中には口を開くと場を冷めさせててしまうという人が確実にいます。お前がしゃべると白けるんだよ、頼むから黙っててくれ、と内心思ったことが幾度もあります。しかし二十年以上生きていれば、自分自身もその「冷めさせてしまう方の人間」だと、分かってしまいます。気付いてしまうともう駄目です。しゃべれません。

 他の「冷めさせちゃう人」を観察して思うのは、言葉の内容より、声とかしゃべり方が問題なんだろうなと思います。言ってること自体は、よく聞いてみるとまあそこそこ普通だったりする。それなのにやたら浮いて、場が一気に引いてしまう。演説するには良い声しれないけど、雑談で周囲を静まらせてどうすんだよ。助さん格さんにでもなるのかよ。

 そこで自分を振り返るに、声は甲高くて変です。しゃべり方……よく分からない。でもどっちも、どうすれば聞き心地良くなるのか分かりません。

 どうすりゃいいのか分からなくてしゃべらない→余計口べたに→たまに口を開くとさらにどん引きされる→余計しゃべれなくなる→の悪循環になってるのは分かってます。でも、もう嫌なんですよ。口を開くたびに変な空気が流れるんじゃないかと緊張しておびえて、勇気を振り絞ってしゃべってみては懸念通り嫌な空気になってその場にいたくなくなるのは。どうせその場にいたくなくなるなら、もう最初からその場にいないかのように、せめて他の人たちが楽しくお話しできるように笑い役に徹していたい。

 そんな風に心から思えたら良いんですけどね。でも本当は面白いこと言って笑わせたい。だから鬱々として、余計人として醜くなって、面白さとはかけ離れていくのでしょう。