自分を売り込めない

 プラス方向での自己アピールが苦手です。自分の美点や長所を紹介し売り込むことに抵抗があります。就活でもそうでしたし、普段の対人関係でも自分を駄目な奴だということを強調しがちです。それらに限らず、どんな局面でも、自信なさげに、いかにも弱者でございといったように振舞うことが癖になっています。

 自信があるように、能力があるように、強者らしく振舞うと、その分期待されます(上手くいけばですが)。期待されれば何かを任せられ、責任が生じます。それが嫌なのです。たとえ、その期待にちゃんと応えれば、負った責任にふさわしく、大抵は支払う労力以上の対価が与えられるとしても。

 義務と権利の比喩関係を持ち出すなら、義務を免れるためなら権利を得なくても良い、ということです。吝嗇と強欲の比喩を当てはめるなら、生きること全般に関して吝嗇なのでしょう――何かを得たいということより、とにかく労力を支払うことが嫌で嫌で仕方ないわけです。

 しかし、困ったことに人は、肉体的にも精神的にも、一人だけで完結して生きていけるようにはできていません。

 肉体的には、肉体が自然と出すものがある分、何かしら入れなきゃいけません。『人間失格』には「人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。」なんて一節がありますが、そんなことを言ってもやっぱり食べなければ死ぬし、その為には社会で労力を支払わなければいけないのです。そして社会というのは一般的に、将来的にどんどん支払う労力が増えていく傾向があると思います(その分リターンも増えていくのですが)。

 また、精神的には、達観というのがなかなかできません。労力を支払うくらいなら、たとえばお金や恋人やその他の得る物がない方を志向する、とは言っても、それらに対する欲が完全にないわけではないのですから。法界悋気ってのは、実に始末に困ります。ねたみ、そねみ、憎み、翻って落ち込み、悲しみ、絶望。時折それは認識を歪ませて、労力を支払わないことを優先させたのは自分なのに、そのことを忘れさせ、努力しているのに望むものが獲得できない、と思い込ませすらします。

 結果として、苦痛と共に最低限の自己アピールをして何とか生きていくか、それすらできずに社会からドロップアウトするか。そしてどちらの場合も、他のまともな人間たちへの羨みと自分に対する絶望がついて回ります。

 まったく、私のような人間は面倒くさいです。不健康です。屈折してます。非合理的です。が、一体どうすればいいのか分かりません。人格を改造する? それとも自分を受け入れて付き合っていく? どっちもなんか面倒くせえなあ。そして今日も、愚痴るだけ愚痴って、何も変えようとしないのでした。