承認欲求なんてはてなじゃ今更の話だけど

 発見したんですけど、どうやら私、人にほめてもらいたいみたいなんです。構ってちゃんだという自覚はありましたが、ほめられたがりという自覚は薄かったです。何で気付いてなかったんだよ、と思われそうですけど、中学くらいまで、もしかしたら高校でも、わざわざ口に出してほめられるのが大げさで鬱陶しいとすら思ってたんですよう。傲慢というか、不遜というか、もったいないというか。照れ臭いのもあったんですけれど、それにしたってねえ、ありがたく喜んでおけばよかったのに。今考えると、嬉しかったんでしょうけれど、割と頻繁に評価してもらえるんで(高校まではお勉強がある程度できれば評価はもらえる)、褒められなれちゃってたから、そんな傲慢な感覚を身につけちゃってたんですね。あとまあ、めっちゃナルシストだったんで、ほめられるまでもなく私は有能だと思い込んでたっていうこともある。

 でもそんなほめられ環境からはじき出されちゃって、ホメ島津じゃなくなっちゃって、そうなると俄然ほめられたくなってる自分がいるわけです。しかし、ダメ島津さんはほめられるだけのことをする力……能力だけじゃなくて気力も、ないので、ほめられないわけで。そうすると、代替品として別の物を求め始めます。たとえば、同情とか。自分の弱いところとか、悪いところとかをアピールして、それをかわいそうがってもらおうっていう手。私のほめてもらいたがりというのは、要するに自分の存在を認めてほしいということに根ざしていますから、かわいそうがって同情を買えれば、それはそれで自分の存在を認められたことになって、ある程度は満足できるんです。でも、かわいそアピールして同情を買うというのは、割と評判が悪いです。何回もやるのはリスキーだったり、さすがにあさましさを覚えたりします。

 それで、次に何をするかっていうと、今度は笑いをとろうとする。自分の駄目なところを表に出すのは変わりませんが(駄目な所しかない)、雰囲気を冗談めかす。それで笑ってもらえれば、それも自分を受容してもらえた気になるから。それに、同情を乞うよりは若干うざがられない。同じようなネタばかりで最終的には鬱陶しがられますが、それでも笑いを少しでも取れてれば、他の人を愉快な気分にできてるという妄想に浸れる。まあ、実質は、ほとんど同情から来る愛想笑いなのでたいして変わらないのですが、自分を騙す言い訳が作りやすいというメリットはある。

 しかし、雰囲気を冗談めかす、と言っても、それはそれなりに技術が必要で。あと手間もかかる。ので、面倒になってしまって私はまた、周囲からの冷たい視線やあさましさに対する慎みをかなぐり捨てて、直接弱音と愚痴を吐露するようになってますね。いやー、カッチョ悪いカッチョ悪い。島津さんなさけなーい。

 本当はほめられたい、すごーいとかよしよしとか言ってほしいのに、同情とか自己卑下の笑いなんかで承認欲求を満たすってのがもう不健康ですよね。ほめられるようなことをしさえすればいいんだ。……って、言うのは簡単だけどね。もしかしたらやるのも、人によっては簡単かもしれないけど。島津さんは勇気が足りないのよ。